定義如来・平貞能と平家落人の里 定義さん、その参詣の定義道とは・・・ 


                      祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
                沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。
                        おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。
                          たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
                                        (平家物語 巻一 祇園精舎)

     平家の落人は全国に渡って秘境のと呼ばれる地に散在していることが見てとれます。
  飛騨高山や合掌造りで有名な白川郷や越中五箇山も同じく落人伝説を持つ部落です。
  また、岩手の山間部にも京言葉を使う部落があるようです。確か東岩井郡だったと思います。
  栃木県の鬼怒川・川治温泉から山間に入ると湯西川温泉がありここもまた平家落人伝説を持つ秘境の地
  なのです。
  追っ手から身を隠すため犬や鶏を飼う事は無かったとも聞きます。
  また、幟等も立てれば目立ちますから、その習慣も無く鯉幟を上げることも無かったようです。
  だからと言ってただ隠れていただけでもありません、宮城には攻めることを想定して前線基地を設け、
  その守りや攻撃の準備をしていた場所が地名として残っている場所もあります。
  しかし、落人の悲しい宿命は平家物語を通じ、涙なくしては読み取ることもできないでしょう。
  その戦いは屋島の合戦にせよ壇ノ浦ににせよ華々しい場面は勇ましいですが、都を落ちゆく平家の公達や
  武士の姿は悲しく
  婦女子も面影は哀れであったに違いありません・・・・
  人とは、弱気ものです。
  逃れ惑う平家の人々の中に今回紹介する、平貞能(たいらのさだよし)の一団もあったのです。
  厳しい山間の中で生活しなければならなかった彼らの生活と歴史を探ってみました。
                                 

     
              平貞能(たいらのさだよし)・・・・誰?と思いますので、家系図を挿入しました。   
   
            

        ※平重盛(1138~1179)
     平安末期の武将。 清盛の長男であり、通称、小松内府(こまつないふ)、灯篭大臣という。
     保元・平治の乱に功あり累進して左近衛大将内大臣を兼ねた。
     性謹直、温厚で武勇人に勝れ、忠孝の心が深かったと伝えられる。(広辞苑より)

     平重盛は治承二年(1178)の秋、重い病にかかり、死期が迫っていることを感じた。
     公は、老臣肥後守貞能(さだよし)を枕元に呼び※中国伝来の御霊像を授け、永く後世に伝えて、
     天皇を始め平氏一族加えて世の人々の後生と自らの死後の菩提を弔うように伝えた。
                                        治承三年四月 四十二歳 死去

     公の遺命(死後に残した命令)を受けて貞能(さだよし)は、日夜礼拝供養を続けた。
     その様子は、生前重盛公にお使えする様なお姿だったそうです。
     翌4年9月義仲の変にあった平氏は、清盛の死後、威勢は次第に落ちてきたのです。
     平宗盛公は敗走するのに西国を選んでいました。
  ※平宗盛=清盛の子・重盛の弟、一族と共に安徳天皇を奉じて敗走、壇の浦で捕らえられ後に近江で斬(1147~1185)
  ※敗走=戦いに負けて逃げ走ること

      
     その様子を平家物語には次のように記されています。

     同じき七月四日、肥後守貞能、鎮西(ちんぜい)の謀反平らげて、菊池・原田・松浦党以下三千余騎を召し具して上洛す。
     鎮西は、わずかに平らげども、東国、北国の軍いかにもしずまらず。
                                           平家物語 巻第七 主上都落
  ※鎮西=(743~745)大宰府を鎮西府と称したことから、九州のことです。
  ※召し具して=そばに呼び寄せてお連れになる。


    平家が、このような状態の京都へ、義仲軍が上洛を開始するにあたり、わずかに肥後守貞能が周辺の源氏方
    を平らげ、三千余の騎を引き連れて上洛してきたのがせめてもの慰めであった。
    しかし、義仲の大軍はすでに近江まで押し寄せてきていました。
 
    平家物語によると   

    京中に残り留まる平家の余党を討たんとて、貞能が帰り入る由聞えしかば、池大納言「賴盛が上でぞあらん」とて、大きに恐れ騒がけり。
    貞能は西八条の焼け跡に大幕引かせ、一夜宿したりけれども、帰り入り給ふ平家の公達一所もおはせねば
    さすが心細うや思ひけん、源氏の馬の蹄にかけじとて、小松殿の御墓場掘らせ、御骨に向かい奉って、
    泣く泣く申しけるは、「あなあさまし、御一門の御果御覧候へ。
  『生ある者は必ず減す。楽しみ尽きて悲しみ来る』と古より書きおきたる事にて候へども、まのあたりかかる憂き
    事候はず。君はかようの事をまず悟らせ給ひて、かねて仏神三宝に御祈誓あって、御世を早うせさせましけるに
    こそ。ありがたうこそ覚え候へ。
    其の時貞能も最後の御共仕るべう候ひけるものを、かひなき命を生きて今はかかる憂き目に逢ひ候。
    死期の時は必ず一仏土へ迎へさせ給へ」と泣く泣く遙かにかき口説き、骨をば高野へ送り、傍の土をば加茂河
    に流させ、世の有様頼もしからずや思ひけん。  (平家物語 巻第七 池殿都落)   

    貞能は平宗盛公の敗走を聞き容れられないので諦め手段がなくなった。
    ただ心配なのは亡君重盛公の墳墓が敵の馬蹄に踏みにじられることを嘆き悲しみ密かに遺骨を発掘して
    高野山へ移し納めたのです。
    その後臣節を全うして宗盛公の軍に従い、一ノ谷、屋島と戦いに敗れ遂に壇ノ浦にて二位尼は、安徳天皇
  (8歳)を抱いて入水した。
    平宗盛は生け捕られ、平氏は滅亡となる(元暦2年(文治元年)1185年3月24日)
    ところが一ノ谷、屋島と戦いながら西へと向かったが軍は離れ離れになり本軍にはぐれてしまった集団もいた、
    貞能は其の中にいたのです。
    一度は死を固く誓ったが、平氏一族が絶えたことをさとり意を決して重盛公の遺命を守り戦いの折、片時も離
    さなかった阿弥陀如来のご霊像を持ち従臣数人を従えて常陸に隠れ髪を剃り出家した。
    貞能は「肥後入道」と称されていましたが、平氏の生存者に対する源氏の追討が厳しくなってきた。
    貞能は従臣等と共に東奥に逃れ、人里離れた奥深い渓谷に身を潜め居を構えられたのです。


       定義の誕生
      其の地こそ(旧)宮城県宮城郡宮城町大倉、現在の仙台市青葉区大倉の地です。
      貞能はそれでも世を憚り、名を「定義」(さだよし)と改めました。
      これが「定義」の誕生ですね。
      定義如来(じょうぎにょらい)と呼ぶのもこれが起こりですね。
      宮城では訛って「じょうげ」とも呼びます。
      貞能は改名後も朝夕尊像を礼拝し※安徳天皇の大菩提と主君重盛公及び平氏一族の冥福を熱心に祈り続けていたのです。
      貞能(定義)は死期にのぞみ従臣達にたくしたことは、「我が死後は、墳墓の上にお堂を建て如来の御尊像を
      安置し後世に伝えるように」と申され建久九年(1198)七月七日御齢六十歳を以ってお隠れになったのです。

      ※第81代 安徳天皇
    【生没】1178年11月12日~1185年3月24日(8歳)
    【在位】1180年 2月21日~1185年3月24日(6年)
    【諡】言仁(ときひと)
    【父】高倉天皇 【母】平徳子(平清盛の娘)
    【陵】阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)山口県下関阿弥陀寺町

       安徳は3歳で即位した、その翌年、後白河法皇の第2子・似仁(ももひと)が源頼政とともに打倒平氏の軍を起こすが失敗。
       後に源義仲(木曽義仲)、源頼朝などの各地の源氏が挙兵し、平氏は倶利伽羅峠(くりからとうげ)の決戦で惨敗した。
       1183年に義仲が入京、平家一門は幼帝・安徳と三種の神器を奉じて都落ちした。
       それから2年後の1185年、壇ノ浦で平家一門は海の藻屑と消えた。
       安徳の祖母である平時子に抱かれて入水しわずか8年の生涯を閉じたのです。

       定義阿弥陀如来とは・・・(中国伝来の霊像)
       御本尊である阿弥陀如来は中国より伝来の御霊像であり大唐の世に法照禅師と申される知徳兼備の高僧がおり、
       禅師は一日霊感を得て(大暦四年四月五日)文殊菩薩の浄土と仰がれる五台山中(現在の山内省)竹林寺に登り
       菩薩様を拝した時、菩薩様は親しく禅師の御前に顕れ給い、「西方極楽の阿弥陀如来こそは、救われたいと念願して
       如来のみ名を称える人は、誰でも貴賤貧富の分け隔てなく、罪深く迷い苦しみに悩みながら生活を続けている凡夫衆生
     (ぼんぷしゅうじょう)を生身そのままに且つ後生永劫にお救い下さる唯一の御仏である」と南無阿弥陀仏の妙行を直に
       お授けになり、加えて阿弥陀如来画像のご宝軸を賜りました。
       以来、禅師は世にあって文殊菩薩様より面授のみ教えを熱心に広め、後、育王山欣山寺に隠遁(いんとん)するに及んで、
       御霊像は長く同寺の宝物として広く人々の信仰うを集めていました。
       ※隠遁=世事をのがれて隠れること
       平重盛公は早くから仏教に深く帰依され、公は争いが始終絶えない乱世の平和に立ち還ることを願い欣山寺に祈願のため
       黄金若干を寄付された折、時の住僧仏照徳光禅師は伝来の御霊像を公のもとに贈られたのです。
       公は歓喜して日夜に礼拝し、天皇、国家のご安泰と平氏一族を始め我が身の後生を祈りました。

      我が家にある阿弥陀如来の御霊像! 勿論複製品です。 

           


                                                                                                                                               数珠の大玉をアップにして覗くと如来像が見えます。
           

        落人と定義さん
         落人達は人里離れた深山幽谷を自ら求めけわしい山間に世間との交渉も薄く、山間の急傾斜を開き棚田などを
      作って長い間厳しい自然に立ち向かいながら生活をしてきたのです。
      其の生活は家族や命を守るために、少しの怠慢も許されなかったのです。
      その地に立つと、私の頬を突く風がその厳しさを物語るようです。
      現在の地は仙台市青葉区となっていますが360度大自然の中にあり、この山奥には水道管さえ普及していません、

       皮肉にもここには大倉ダムと七北田ダムがあり、水を市民や近隣の町へ供給しています。
     それなのに地元の人には何の恩恵も無いのです。
     しかしながら唯一の恵みは豊かな大自然です。
     清らかな沢の流れや山の恵みは飲料水となり、薬草にもなります。
     その知恵は、ここに住む人々に受け継がれまた、山林は古くから木炭の生産地ともなり木材も含めそれを生業としてきたのです。
 
     48号線「関山街道」を表門とされる熊ヶ根大手門から大豆沢~青下に入り山道を巡り、
     定義の里へ落ち延びたという説があります。
     途中の大豆沢の地名は、従臣が馬の飼料である豆をあたりに散らしたのが理由のようです。
     青下の地名は、仮屋を建て青柴を屋根にしたことから付いたちめいのようです。

     現在の地図に照らし合わせてみました。
     山道はありました、しかしここは車で走れる道ではありません。
     緑の道路や点線は、現在の参拝道路です。
     オレンジ色が、貞能の定義への道です。

          

            下の黄色い点線は、後程説明します。


        黒のペンで小倉神社と書いていますが、以前紹介済みの、平家に関わる神社です。
             小倉神社 

            今では、「定義さん」や「定義如来」と呼ばれ、一般の人々に広く信仰され、年間百数十万の参詣者を数えています。
       昔から「一生に一度の大願は必ず叶えてくれる」と信じられ良く知られています。
       我が家でも安産祈願をしたものです。

      定義如来に関するブログの記事
           平家落人の里
     定義如来のだんごを食べに
     定義如来/西方寺:平貞能公
     定義如来/西方寺(定義山):平貞能公 その2
     小倉神社    

定義如来 平貞能 平家の落人の里 大倉とは    

                                                                                   

                                                                    大倉の地
     仙台藩の領地になるまでは、この部落の人々は平氏を偲び他の部落との縁組を許さず。
       純血を守ることに平氏の誇りを感じていたのです明治初年にあたりにこんなことがあったそうです。
   村芝居が行われていた頃定義に舞台を一の谷合戦記を上演した時、あちこちから物が投げられて遂に
   中止させられたり上演中舞台が急に倒壊したこともあったといいます。
   それ以来定義では芝居の上演は止めたそうです。

   さて、この地を一般的に大倉と言いますが、厳密には大倉部落があります。
   伝説には、鎌倉源氏の子孫大倉蔵人重義を始祖とする大倉家が故あって遠く陸奥の地に逃れこの地大倉の山里に
   隠棲したとあり、平家落人と「お互い仲良くしよう」と申し合わせたという語り伝えが残っています。

   また、定義如来入り口(国道48号線)の近く作並方面に行くと新川(にっかわ)というところがあります。
   そこには、源氏の勇将源義経の奥州下りの道中たまたま平家落人平貞能と出会い、敵味方なく睦まじく夜を明かしたと
   言う伝説の「ほととぎす塚」があると言う。

   また、時代は下って戊辰の役、義勇軍(からす組)隊長仙台藩細谷十太夫や奥州鎮撫の参謀、長州藩の世良修蔵を斬殺した志士が
          厳しい追及に一時隠れ住んだのが天狗茶屋とか・・・・定義温泉とも伝えられています。
                                                                  
                                                                             ぢゃう義道

   定義の里に通じる道には、白木部落、矢籠、青下、大倉とありどの道も山道で峠や峰を通っている。
   定義の里と合わせて五部落がこの道で結ばれていて密接な連絡がとれていた。   
         これは、防備の為に五人の従臣を配置し前線基地として固めたものと思われます。
        「左ぢゃう義道」とかかれた道標があります

                                

この石碑は安政四年の物のようです

                   しかし、この石は昔は、北谷地から白木部落にあったもののようです。
      確かにこの分岐の左は旧街道ですが、崖崩れが多く今は不通です。       
                   それは、さておき、先人達はこの道を歩いていたのでしょう。       
                   かつては古街道としダムを横断した岩出山街道または、秀衡街道と呼ばれていた古い道があったのです。
      伊達家が岩出山に居城していた頃は、山形方面への軍道としての最短通路で通行人も多かったと聞きます。
        また、奥州藤原の平泉文化が最上へ流入した道としても考えられているようです。       
                これらのダムをおうだんした道はダムの水底になってしまいました。       
                水没した村は栗生部落20軒、日向部落が40軒で合計60軒でした。

    大倉ダム

       ダムに水没したものには天狗橋と天狗茶屋があります。この天狗茶屋は古くから親しまれて来た店で、
       由緒ある桂清水を利用して「ところてん」の商売を始めたのが初代の天狗茶屋の女主人です。
       初代は慶応二年生まれといいますから、古くからあることがわかります。
       名前等々二代目などもわかりますが、現代は個人情報のこともあるのでここでは割愛します。

                                                            

                                                        創業300年の文字が・・・・・
   今は、車社会となりここは通過地点となり衰退していったようです。       
          私は、以前から気になっていた仙台から定義如来までの徒歩での参詣ルートを行って見ました。 
        今回の参考資料にしました「秘境、定義谷」著者・西村勇、発行:楽山西方寺の本の中にこんな唄がありました。

      「定義如来参詣道中唄」です。 明治初年の頃の唄のようです。

       ♪時は旧七月六日のことよ、定義詣りと二人連れ
       
八幡町を後にして落ち合茶屋にて腰をかけ
       これこれ花ちゃんこれから定義に幾里ある
       そこで花ちゃんの申すには、定義様まで五里と半
       それでは花ちゃん”さようなら”
竹は無くても大竹よ
       急げば早くも
 二本松赤坂小阪もひと登り
         青の木茶屋でひと休み、日も西山に傾いた
         八枚たんぼを下に見て 昼もさびしい夜盗沢
       
新道隧道通り抜け、見上げて見えるは高柵よ
       大倉
日向の切払い天狗橋より天狗茶屋

       小田や石 子や石名窪、とぜんで通るは山ぎわよ
       海老沼、曲戸に栗生坂、地蔵菩薩を伏し拝み
       年は古いが若林、千本杉とは此処なるか
       夏も涼しいひゃっこ沢、何時もどんどと滝ノ上
       はや高森に登りけり小手をかざして眺むれば
       
矢籠部落に大原よ、うしろは獅子込みおうとどよ
       地蔵平の賽の河原、一の鳥居は高見沢
       定義の里に着きにけり五三のキザハシ登りつめ
       二人で揃うて手を合わせ、これこれ申し如来様
       この縁結んで賜れと二度も三度も伏し拝む
       アリヤラン コレハノセイ ササヤレ サンノセイ
                  
                     八幡町を後にして                   竹は無くても大竹よ

                     急げば早くも二本松               赤坂小坂もひと登り

 

        

              青野木茶屋で一休み                 昼も寂しい夜盗沢

                      

                             八枚田んぼを下に見て

       

                新天狗橋                 橋から見た渓谷   ダムの堰堤が見えます。

       

          橋を渡ると以前に紹介した小倉神社にでます。     この辺りを下倉地区といいます。

              

             「新道隧道通り抜け」とありますが、近年隧道はふさがり新しい道が出来ました。
              隧道はふさがれこのような状態です。

             

           大倉日向の切払いですが、こんなバス停がありました。
           実は、切払いのバス停もあるのですが、隧道の道を通りましたので、反対側の道になりますので
           カットです。 ちなみに、切払い橋もあり、「日向下」もあります。
           海老沼などの地名は、隧道側のルートです。日向と反対側の道ですね。   
           前の地図を見るとわかります。

       

                     揚羽蝶・・・・・平家の家紋です。

       

                 滝の上             ここは、前に紹介した、ぢゃうぎ道の石碑があった所です。 

        定義如来(定義道)2に続く 

                                        

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