伊達騒動(寛文事件)その真実とは 仙台藩主三代目綱宗が若くして隠居させられる。
お家騒動とは、大名家の内紛である
伊達騒動(寛文事件)と伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)
伊達騒動とはどんなものだったのでしょう・・・
現在の伽羅先代萩になるまでに、かなりの改作が行われているようです。
十幕あった話も、徐々に減り、名場面を中心に四幕物となり、舞台背景も奥州藤原を舞台にしたり、足利将軍の殿中となったり
登場人物の名もかなり変化があるようです。当時は実名を使用することが許されなかったからですね。
それでは、一般的に知られている、伊達騒動について紹介したいと思います。
その後に、背景や歌舞伎としての伊達騒動、そして史実を検証して行きたいと思います。
伊達騒動とは・・・・(俗説)つまり歌舞伎など通し民衆に伝わった内容
仙台藩主伊達政宗公(六十二万石)を二代目忠宗公が受け継ぎます。
その時四代目綱村様(幼名・亀千代)はわずか二歳でした。
この劇の中で「腹はすいてもひもじぅない」と言う、千松のセリフは、江戸中期の流行語になったようです。
現代なら流行語大賞を取ったことでしょう。
それでは、伽羅先代萩の第二幕(竹の間)のシーンから・・・・
幼君の鶴千代が乳母政岡の子千松を相手に遊んでいる。
そこへ仁木弾正の名代、妹の八汐と田村右京亮の妻沖の井が、近頃殿中で起こる怪事件について、
政岡を糾明(きゅうめい)するためあらわれ、八汐は鶴千代に食膳をすすめたり、女医小槇の針術をほどこしたりしようとするが、
政岡はこれを拒否する。
鶴千代の殺害と政岡を計略に陥れようとして失敗した八汐は、無念そうに沖の井とともに退場する。
第三幕は足利家奥御殿の場 (前にも述べたように、舞台は変えてあります)
悪人がはびこり、忠臣はしりぞけられた殿中で、政岡がただ一人鶴千代のを守護している。
毒殺の心配があるため、政岡が自ら飯を炊いて、子供の千松に毒味をさせて進める。
一粒の米にも事欠くこの頃では、飯炊(ままた)きの支度も容易ではない。
「腹がすいてもひもじぅない」の千松の名文句はここで登場してきます。
飯炊きの場面が終わると、管領山名持豊の奥方栄御前が沖の井と八汐を従え、見舞いに来る。
美しい菓子折を鶴千代にすすめると、千松はかけ寄って、その一つを食べ、残りを足蹴りする。
毒が廻って苦しむ千松を八汐が懐剣で咽喉を刺し、母(政岡)の前で殺害する。
無礼者千松の成敗は当然と、政岡は悲しみを押えて涙一つ落とさないのです。
栄御前は政岡が平然としているのは、千松と鶴千代を取替えておいたためと合点し、政岡も悪人の一味と認め、連判状を渡して帰る。
二人が帰った後で政岡は、吾子の死骸にとりすがり、「コレ千松、ようでかしゃった!でかしゃった!よなぁ~」と泣く。
「思い廻らせば此の程から諷ふた唄に千松が、七ツ八ツから金山へ、一年たてども未だ見えぬ唄の中なる千松は、
同じ名の付く千松の、そなたは百年待ったとて、千年万年待ったとて、何の便りがあらうぞいな~、
三千世界に子を持った、親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの食うなといふて叱るのに、毒と見たなら試しみて、
死んでくれいといふような、胴欲非道な母親が、又と一人あるものかいな~」
ここで、俳優も観客も涙を流し、先代萩最高の見せ場なのです。
中には話せない方もいますので強制しないように。
政岡が悲観の涙にくれているとき、陰で聞いていた八汐が、政岡に斬りかかる。政岡は懐剣で八汐の脇腹を刺し、千松の仇を討つ。
その時一匹の鼠があらわれ、紅隈(べにぐま)に反りを打った太刀、鉄扇を構え、足下に大鼠をふんで、荒獅子男之助が出現する。
男之助は悪人の讒言(ざんげん)で、君側からしりぞけられていたが、御殿の床下に潜んで鶴千代君を守護していたのである。
男之助が鉄扇で鼠を打つと、掛烟硝(かいえんしょう)の中から鼠色の着付けをした蒼白な仁木弾正が、巻物を口に咬えてせり上って来る。
ここで男之助と弾正の対決となり、又一つの大きな見せ場が現れる。
対決は引き分けに終わり、弾正は巻物を懐にして去る。
大詰の問注所対決では山名宗全の不公平な裁断と渡辺外記左衛門の苦心、細川勝元の出場と仁木弾正の服罪を描き、刃傷の場では愁眉を開いている
外記左衛門に、前非を悔いて連判状を渡すと見せかけた弾正が、突然短刀で外記左衛門を刺す。
渡辺民部、山中鹿之助、笹野才蔵がかけつけて弾正をおさえ、深手を負った外記左衛門が弾正を倒す。
細川勝元が現れて外記左衛門の忠義を賞し、足利の御家は鶴千代が相続すること、本領は安堵されたことを告げ、外記左衛門は御家の安泰を知って瞑目する。
これが、芝居での大筋の流れです。
当時の寛文事件を題材にした歌舞伎の浮世絵があります。 これは「伽羅先代萩」の御殿の場
床下の場
容色仙代萩
◎政岡と振姫の墓所の記事はこちらです
亀千代と生母三沢初子
「今ニ至りテ、此末、心ニカカル事二ツアリ、当君御壮年ニ在シテ大ニ酒ヲ好ミタマフ、是一ツ、次に兵部殿(伊達兵部宗勝)
才智ニハ御家中ニ及ブ者ナシ、是ノミ心ガカリ」と残し伝えている。
その他の史料でも綱宗に酒狂の悪癖があったことは、明らかなようだ。
実は、家康が忠宗に嫁がせたかったのは、自分がもっとも寵愛した太田氏おかじの方所生の女子市姫をと決め手いたのですが、
殤したため振姫に変更したわけです。
話は戻ります。
当時、綱宗は振姫の計らいで振姫の待女、三沢初子を側室に入れ、江戸浜屋敷で綱宗の第一子綱村を生みました。
しかし、忠宗亡き後、独立大名の地位を狙っていた伊達兵部宗勝があり、藩内は動乱が起きうる状態であったことは紛れも無い。
伊達兵部宗勝は大国に生まれながら嗣となれない立場を恨み、二代藩主忠宗が没すると謀議を企てる。
発端は綱宗逼塞
万治三年(1660)七月十八日の七つ(午後四時)すぎ、江戸小石川の普請場から芝の浜屋敷(現新橋駅構内)に帰った仙台藩主伊達陸奥守綱宗は、
上使太田摂津守資次及び立花飛騨守忠茂・伊達兵部少輔宗勝から、逼塞の幕命をつたえられた。陸奥守はかねて病身であり、そのうえ不行跡で、
家臣らの諫をも聞きいれないよし紛れが無いので、逼塞を命じる 。跡式(跡目)のことは、おって申し付けるであろう。ただし、小石川堀普請の
ことはすでに着手して進行中のことでもあるから、家臣を出して従来通り続けるように。
綱宗に対する幕命の伝達に先立って、この日、立花飛騨守・伊達兵部少輔宗勝および伊達家臣大条兵庫宗頼・片倉小十郎景長。
茂庭周防定元(初め延元)・原田甲斐宗輔が、老中酒井雅楽頭忠清の邸に召集され、老中阿部豊後守忠秋・稲葉美濃守正則の列座のもとで、
綱宗に対する上意を申しわたされた。
上意を受け賜わった飛騨守と兵部少輔は上使一名の派遣を願い、その結果太田摂津守が上使にたち、飛騨守と兵部がこれに同道することになったのである。
幕府の記録『徳川実紀』は、綱宗の逼塞にについて、伊達家臣からの綱宗隠居の願いと、これに対する上意の伝達と執行の過程、さらに上意のの主旨を、
先に紹介した程度に記している。
「綱宗の乱行」
綱宗の進退のことは、じつは伊達家臣たちから出願されたものであった。
万治三年(1660)八月二十五日の朝、伊達兵部・立花飛騨守・太田摂津守および大条兵庫・片倉小十郎・茂庭周防・原田甲斐は老中酒井雅楽頭の邸に召集され、
将軍補佐保科肥後守正之・老中阿部豊後守・稲葉美濃守、大目付兼松下総守の列座のもとに、楽頭から次のような申しわたしをうけた。・・・・・・
このたび、一門・家老の輩の言上の趣を上聞に達し、陸奥守(綱宗)に隠居をおおせつけ、跡式のことは実子亀千代に下される。
伊達兵部少輔の本知一万石に二万石をたし、田村右京を大名にとりたてて三万石とし、ともに亀千代の領分のうちからその知行を下される。
両人で亀千代を後見せよ。
江戸では、綱宗逼塞下命の翌十九日の朝、綱宗の近臣、坂本八郎左衛門・渡辺九郎左衛門・畑与五右衛門・宮本又市の四人が斬殺された。
綱宗に不行跡をすすめたかどによる成敗である。このことについて、『茂庭家記録』によると、「君(周防定元)、御計ヲ以テ、仰ラルト」と述べている。
江戸詰奉行茂庭周防が、自分の計らいで成敗したというのである。
確かに上意のあった翌朝の処断が、国もととの連絡を待たずになされたことは明白である。が、
それは江戸にいた兵部・右京・奉行大条兵庫・普請総奉行片倉小十郎・評定役原田甲斐らの諒承のもとにおこなわれたとみてよかろう。
成敗のことは、その日のうちに幕府に届け出られた。この処刑は、大槻文彦が述べたように、幕府に対する伊達家としての謝罪の行為であったとみられる。
『茂庭家記録』には次のような記録が見られる。
・・・・・綱宗の逼塞に先立つころ、茂庭周防は幕府御側衆の久世大和守弘之(のち老中)のもとにひそかに呼ばれ家督の候補についてたずねられた。
周防が亀千代を願う旨を答えると、広之は、そのように願い申し上げよ。ただしこの内談の言葉は片倉小十郎には内密にせよ。と指示した。
これによって周防は、目付け役の里見十左衛門を仙台に派遣し、伊達安芸・伊達弾正江戸登を要請した。伝えによると、広之が小十郎には内密にといったのは、
酒井雅楽頭が伊達六十万石を三十万石を兵部、十五万石を立花台八(飛騨の守の子息)、残りを田村右京に分け、うち三万石を小十郎に分けて大名にとりたてる、
という密計を立てていたためであるという。これらを事実とすれば、綱宗隠居後の処置について、兵部・台八・右京らに三分する密計があり、
また亀千代相続のことも一門重臣らの入札によってはじめて確定したことになる。ところが、この年六月二十六日の伊達弾正あての書状には、
次のように気されている。------綱宗不行跡による伊達家の危急について、立花飛騨守の邸に寄りあい、大条兵庫・片倉小十郎・茂庭周防を招集して
内談したところ、綱宗を隠居させ、亀千代に相続を仰せつけられるように、と重臣が連判のうえ出願すべきだ、という意見が一致した。
このことは、すでに春(一~三月)のうちにもあなたからお話があったことでもあり、賛成していただけると思う。綱宗の兄弟などを家督にたてることは、
幕府としては許さぬ方針だから、ただいまは亀千代をたてるほかに、伊達家の身代を守るすべは考えられない。
奥山大学から連判のことが参るだろうから、どうか加判を願いたい。
この旨、右京・式部へもお伝えいただきたい。
-------末尾に「必々、火中々々」とかかれたこの密書は、しかし焼却されずに後世に伝わることになったわけであるが、その内容によれば、
兵部および弾正らの間に、綱宗隠居・亀千代相続のことがすでにこの年の初め以来話題にのぼっていたこと、しかも亀千代以外のものを家督に立てるという
意向が彼らにはなかったこと、したがって入札のこともありえなかったことが判明する。そして兵部は、この書状の箇条で、「若し、このたび、無同
同意しない)の者は、伊達之御家へ逆心に候間、あい除くべきよう、飛騨殿と申し合わせ候」とのべている。『実録』に収めるこの書状は、
『実録』刊行の明治後期には、玉造郡岩出山町の上遠野秀宜氏の所蔵となっているが、弾正あてのこの文書は当然岩出山伊達家から上遠野氏の手に移ったもの
であり、推測される伝承経路から、偽文書とは考えられない。また、このように、兵部に対する評価を有利にするような文書が、後世に偽造されるはずはない。
大槻文彦もまた、この文書を疑ってはいない。問題はむしろ、『奥山大学覚書』と『茂庭家記録』にある。
大学の覚書は、すでに「騒動」が落着したのちの貞享二年(1685)に書かれたもので、奥山大学が自分に都合のよいように作為したものとみてよい。
事実、この覚書の部分には、綱宗隠居願いに大学が加判しなかったと書いてあるが、それにもかかわらず、七月九日の連署状に大学が加判したことは、
すでに確認した通りである。
上記写真には奥山大学の名前がはっきりと見える。詳しく書いていると長くなりますので割愛させていただきます。
奥山大学やり放題・・・万治三年大学が江戸に上り、綱宗の不行跡は確かに本人の不覚悟にもよるが周防が悪事をすすめたためでもある。
このような悪人とともに公用をつとめることはできない、と幼君亀千代ののもとで両後見人に訴えた。
周防の退任をせまった大学の弾劾によって周防は家老を罷免された。仙台藩の初期には奉行は六人で、仙台詰二人、江戸詰二人、在郷休息二人という形で
交換するのがたてまえであった。茂庭周防失脚後、奉行は、奥山大学常辰・古内主膳重安・大条兵庫宗頼・柴田外記朝意・富塚内蔵丞重信の五人。
この年十二月に古内主膳が病死した。
翌寛文二年には大条兵庫宗頼が隠居し、かわってその子監物宗快が奉行となり、柴田外記と内蔵丞はまだ二年目で大学の威勢は決定てきになる。
前年の三月大学は三千石から六千石への加増を許されている。大学のとった行動を見ると・・・・・・・・・・
忠宗の世に死んだ今村三太夫の跡式について忠宗の命令をのちに書き換えて違った処置をした。
藩主の御霊屋の御用にさえたてぬ宮城郡愛子山の松を五百本も伐って自分の建築のあてた。
禁則をやぶって、饗応に贅沢をつくし、毎度乱酒乱舞した。 家老衆は賄賂を受けとらなかったが大学は何でも受け取るようになっていた。
仙台城中の鷹屋を自分の屋敷にたて、御鷹師衆を自分の屋敷に詰めさせ藩主御名代同様のふるまいをした。他にも色々あるが割愛、悪代官ならぬ悪奉行である。
その後、一門および家臣らの訴えがだされ、国目付から老中に報告され、大学を罷免した。大学は「悪人」の名で呼ばれることになった。
原田甲斐
寛文三年(1663)原田甲斐宗輔と伊東新左エ門重義が奉行に就任した。甲斐は宿老、在所は柴田郡船岡で知行高は寛文十年の侍帳では、4183石となっている。
新左衛門は着座。
知行は桃生郡小野2670石である。原田甲斐宗輔の家は宿老。 伊達家の始祖朝宗以来の譜代の臣と伝えられる。甲斐宗輔の母(慶月院)津田である。
津田の母は茂庭延元の娘となっているが、実は政宗と香の前の娘である。
この香ノ前は秀吉の側室であった。香ノ前については 伊達政宗の資質と歴史の因果 に記載しています。
甲斐は三十歳で評定役に任じられ、万治二年・寛文元年のそれぞれ鹽竈神社の普請総奉行に、万治二年には忠宗廟所感仙殿の普請総奉行にあてられている。
寛文九年(1669)の頃、奉行古内志摩はこう言っている。・・・・・・・
甲斐は奥山大学ほどに荒いことはないが、ひいきが強く立身威勢を望む点では少しも違いが無い。
特に兵部様を非常に恐れており、また目付け役のいうことに対しては、筋の通らぬことでも同調する。・・・・・・・
しかし、甲斐の反対党である志摩の言葉もまた信じることはできないが、このような傾向が甲斐本人に全くなかったとは言い切れない。
いずれにせよ、甲斐は『千代萩』の仁木弾正のような悪人でないことは勿論であり、また山本周五郎が『樅ノ木』に記したような理想的な人物
でもなかったことはまずうたがが無いだろう。
兵部が目付役を過分にもちいることにあり、特に目付け役のなかでも渡辺金兵衛を近づけて重用していることにあったことは、かれの覚書を見れば明らかである。
渡辺金兵衛とは、なにものであろうか。
彼は、もと牢人であったが、綱宗の代に召しかかえられたという。伊達譜代の臣には、渡辺という家はないから、かれが新規とりたての者であることは、確かである。
寛文三年(1663)十一月、渡辺金兵衛義俊は今村善太夫安長・里見正兵衛盛勝と三人で、勤めかたの心得について起請文(きしょうもん)
【神仏に誓った文書】を両後見に提出している。
この月は、五歳になった亀千代が袴つけの式をあげた月で、この起請文はそれと関連して出されたものであるが、その中に「このたび仰せつけられた候三人」
とあるのによれば、金兵衛らはそのころ目付け役となったものかと思われる。また、金兵衛は刀の腕のもちぬしでであると思われる。
目付け役三名が連署した起請文(寛文三年十一月)に次のようなことが書かれている。
家中の悪事については、自分の親子兄弟は勿論、殿様の御親類集のことでも、遠慮なく報告する。・・・・・・・・・・
二代忠宗の代に置かれた目付けが、亀千代の代になって、にわかに大きな役割を演ずるようになる。
兵部が目付役をてなづけるために、金兵衛を近づける。 金兵衛は出世のために兵部に近づく。二人の結びつきが強まるのは、自然ななりゆきだった。
金山本判役(かねもとほんばんやく)の一件で兵部と金兵衛は結びつきは強くなった。
金山本判役とは・・・・鉱山の採掘者に対する課約金ですが、政宗は秀吉か許されて以来、幕府に上納せずに自由にできる特権があった。
兵部の一関領内にある金山について奥山大学は帰属させずにおいた。しかし、大学失脚後、金兵衛の尽力によって、兵部の収納に決定した。
三万石の後見役兵部と四百石の目付役渡辺金兵衛の関係によって仙台藩の政治が動かされるよいう傾向が現れた。
寛文九年(1669)の頃古内志摩は言っている。甲斐は威勢が出てきたとはいえ、実は小姓頭のつよいのと合点してのことで、とても抑えにはならない。
人々は内々では奉行よりも渡辺金兵衛えお重く見ている。大槻文彦は「伊達騒動」における二悪党の第一として渡辺金兵衛、今村善太夫をあげた。
彼らが仙台藩の警察政治の展開の立役者だったことは、確かだろう。
谷地紛争(寛文五年)1665年
伊達安芸宗重の領内で遠田郡の東境にあたる小里村(涌谷町)と伊達式部宗倫の嶺する登米郡赤生津村との間に紛争がおきた。
紛争には式部方に属することで、ことは落着した。
後に安芸が述べたことは「自分の地行である遠田郡小里村の谷地について式部は郡奉行山崎平太左衛門を介して、それを登米郡赤生津村の谷地であり、
したがって式部領だ、と申しかけてきた。
小里村が確かな証文など持ってはいたが亀千代様の幼少のおりでもあるので遠慮をして式部殿の勝手しだいに内々でことを済ませていた。というのである。
寛文五年のこの紛争はまずこのようなことでおさまったが、その翌々年に起きた紛争はついに伊達安芸の幕府への提訴となり、「伊達騒動」を決定的な段階に
追い込むことになる。
伊達安芸宗重
伊達兵部、原田甲斐に対する「伊達騒動」での一方の旗頭と言われる。
桃生・遠田の紛争 寛文七年(1667)の秋、桃生郡と遠田郡の境界の谷地について、式部と安芸の間の紛争がおきた。 桃生郡深谷の大久保村の西の田に続く谷地10町を、式部は藩士若生半左衛門という者に与えることにした。 そこで、桃生・遠田の郡奉行 山崎平太左衛門はかねての掟によって、この谷地開発が隣村の遠田郡二郷村の草、かや用水、などの支障にならないかどうかを安芸方に藩の代官を 介してたずねさせた。 十一月、安芸から郡奉行にに返事があった。 「深谷分になっている旭山の西の谷地は元々みな遠田分なのだ。 であるに、寛文十七年(1640)の検知の以前から深谷の百姓たちが入り込んで新田をおこしたが遠田の百姓たちは深くにしてこれを見逃し検地のおりにもそのことを申し上げなかったために、 それらは深谷分の田として決定してしまった。 すでに検地で深谷分に編入された谷ついては、いまさら問題にするつもりはないが、その他の谷地分は互いに証拠によって、自分と式部との、両方の家来の相談で境を決めることにしたい。 翌寛文八年(1668)二月、式部はこの安芸の申し出を拒絶した。 谷地堺のことは郡奉行山崎平左衛門の判断で決定してもらいたい。 その後のやり取りの結果、三月末になって安芸は「藩の検使によって、はっきりした境をたてよう」という式部の主張に従う腹を決めた。 寛文八年四月、式部はこの問題を家老(奉行)に訴えでた。 柴田外記、原田甲斐、古内志摩の三奉行は、秋には幕府から国目付が下って来ることでもあるから、しばらくの間訴訟を遠慮されたい、とこれを慰留した。 翌年二月、国目付が江戸に帰ると、式部は再び訴えを起こし、次のような口上書を奉行に提出した。「深谷と遠田の境は以前からたてられている。問題の谷地については寛永検地のちにも緒方清兵衛ら数人のものが、すべて深谷からの手続きで新田を拝領している。 遠田の百姓たちが、これに異議を唱えなかったのは元来この地が深谷分だったためなのである。 不覚、などと申すべきものではなかろう。 安芸は深谷の谷地はすべて遠田分だというが、それでは谷地に境を立てようがないではないか。 安芸は望みが多く、そのために間違った言い分が多いのだ。 自分が安芸の領地を横領して若生半左衛門に与えた。とあっては武士のつとめがならない。 この点は、きっと明確にしなければならぬので吟味してもらいたい。 式部と安芸は互いに主張をゆずらなかった。 兵部と右京は幕府申次(もうしつぎ)島田出雲守らに申しで、また立花雪(飛騨守)にも相談しついに内々で酒井雅楽頭忠清に伺いをたてた。 雅楽頭は寛文六年以来、大老となっていた。 その際、両後見の意向は式部の方が理が強いようだから三分の二を式部とし仙台への申し渡しはには「安芸は年かさだから堪忍するように」と伝える。というものであった。
判定は次のように決まった。
亀千代幼少のおりでもあり、また両人に甲乙があってもいかがであるから、正式の裁判は差し控え、双方ともに堪忍して、紛争の谷地、
安芸は年かさでもあるから三分の一とし残りの三分の二を式部につける。
この旨をうけた評定役茂庭主水は寛文九年五月末江戸をたって仙台に下り、奉行柴田外記、古内志摩とともに、石川民部、伊藤弾正をたずね事情を報告した。
安芸はいったん拒否したが六月九日ついにこれを承認した。「殿様御為の儀と仰せ下され候うえはとかくもうしあぐるに及ばず」というのが安芸の論理である。 式部もまた裁定に承服した。 結果は雅楽頭にも告げられ一段落をみたのである。 実測の結果、谷地の総面積は1233町余、うち三分の一の411町を遠田、安芸方につけ、残り三分の二の822町を深谷、式部方につけることになった。 後に編集された「桃遠境論集」の記事によれば、数字の計算とは違って実際の谷地わけでは、桃生深谷の百姓のいい分は、まちがったことでもとりあげ。 遠田の百姓のいい分は、証拠のあることまでおしかすめて境がたてられたという。 大塚八九、小塚一七三、大小合わせて二六二の境塚が築かれて検使が仙台に帰ったのは八月半ばであった。
寛文八年(1668)七月に、幕府旗本桑島孫六吉宗は後見田村右京にしめした書状には伊達家中の動静を報告していた。
ただ今立身しているものは、皆金兵衛・今村善太夫のひいきであり衰えた者は彼らと会わない人々である。
”右京様は仮病を使って亀千代様の御用をさけ自分の保身だけを考えている。 兵部様は老齢病身ながら、床(とこ)の上でも御用を聴き、
亀千代様の為には一命を惜しまれない。” と
仙台で何かとごたごたがおきるのも悪人たちの仕業と思われる。
仙台人の心ばせが、まったく義理を失って、へつらいと邪悪ばかりになってしまったのは、ひとへえに兵部様が悪人どもを一味にされる不善によると思う。
万事仙台藩の政治は、まず目付衆と金兵衛が十分に内談をし、それを兵部様に示し合わせた上で奉行たちに談合して両後見に申し上げる。
兵部様はとっくに承知のことを右京様と一緒に初めて聞くようなふりをしている。
この頃は、万事が金兵衛・善太夫、二人の言う通りになっている。
前年の谷地配分の不公平を藩に訴える。場合によっては幕府にも訴える決意を家中長谷川杢之丞もくのじょうらにうちあけ杢之丞らは
その秘密を漏らさぬことを氏神愛宕権現に誓ったのです。
これに対して、二月十三日、国詰めの奉行原田甲斐と古内志摩の連署で、次のような返事が安芸あてに出された。
安芸は、勝訴しても、この度のことでは、定めで自分は処罰されるだろうと覚悟していた。
当時、後見伊達兵部・奉行原田甲斐・小姓頭渡辺金兵衛はそろって江戸にいた。
伊達家中は彼らの手で固められ安芸の立場は苦しかった。
国元仙台では、安芸を支持する人々が少なくなかったことが知られる。
一月十日には、かつての独裁者奥山大学が、幕府仙台目付に領内政治の不正を訴えていた。
また、一月二十日、屋代五郎左衛門と木幡源七郎が早川八左衛門、飯淵三郎右衛門・大河原三郎右衛門をさそって連署の訴状を作り仙台領はずれの
伊達郡桑折宿で幕府目付に提訴した。
兵部らに対する伊達家中の大きな不満があったことは確かである。
兵部、甲斐、金兵衛の党と、これに対する隠岐(右京)、安芸、奉行柴田外記、出入司田村図書らの派との矛盾対立は、この時点で最大となる。
田村隠岐守(右京)の家老平田縫殿と原田茂兵衛の書状には、すでに一月頃に、将軍補佐、会津二十二万石の主、保科肥後守正之が
「兵部の不行跡はかくれもないところで、 三年前にも処分を仰せつけるべきところだったが、政宗の子息であるために許されたことがある。
「この度の安芸の訴訟は陸奥守殿のためには良いことだ」と語ったことが記されている。
「家蔵記」は、この神門後に内膳正が「安芸ほどの侍は世にあるまじ」と褒めたと記している。
三月七日
板倉邸で内膳正、但馬守による。柴田外記と原田甲斐に対する審が行われた。
外記と甲斐は別々に取り調べを受けたが甲斐の答えは外記とくいちがい答えに詰まることもあったという。
原田甲斐は義弟の若年寄津田玄蕃、小姓頭渡辺金兵衛、目付今村善太夫らと連判の覚書を作って十四日老中に提出されようにと申次衆に申しでたが、
申次はこれを受けはしなかった。
甲斐はこれを直接内膳正に提出し、内膳正はいったん受け取ったが十九日になってこれを返した。
この日、板倉邸から戻った甲斐はきわめて不機嫌だったと安芸の書状にはみえている。
三月二十一日、奉行古内志摩が幕府の召喚を受けて国もとから江戸にのぼった。
三月二十二日、板倉邸で内膳正、但馬守による志摩に対する審問が行われた。
志摩の答えもまた外記と同じであった。
二十三日、安芸が兵庫にあてた書状にも将軍補佐保科正之が兵部のことは、もう決まった。と話したことが記されている。
伊達安芸宗重及び柴田外記・原田甲斐・古内志摩の三家老、聞番(取り次ぎ役)蜂谷六左衛門可広(よしひろ)を案内として、
召喚に従い四ツ半時(午前十一時)頃、板倉内膳正重矩(いたくらないぜんのしょう)屋敷に参候した。いよいよ最後の断の下る。
この日の朝早く、原田甲斐は、板倉家を訪ね、直々申し上げたいことがあると願い出たが、重矩は後刻、老中列席の場で聴取すべしと答え、面会しなかった。
甲斐としても、必死の場面であることが推測される(治家記録)
昼九ツ時、酒井雅楽頭から老中方が雅楽頭の屋敷に寄り合っているので、こちらに罷出(まかりで)るように使者があり、一同が大老酒井忠清の大手前屋敷に向かった。
その大書院には、大老酒井忠清、老中稲葉正則、久世広之、土屋但馬守数直、板倉内膳正重矩、仙台の申次町奉行島田守政、作事奉行大井政直、大目付大岡佐渡守忠勝、
目付宮崎助右衛門憑仲(よりなか)など、関係者が全員参集していた。
取調べは、伊達安芸、外記、甲斐、志摩の順に一人づつ呼び出され、さらに安芸、外記、志摩と二回目の尋問があった。
そうして、甲斐が退出し志摩が入れ代わって奥に入っていった後に,甲斐の刀傷事件が発生したのです。
外記の遺体は二十八日の明け方酒井邸をでた。 六十三歳だった外記は安芸より六歳年長で瀕死の深手をおいながら伊達家中の後事を気遣った。
二十八日付けの古内志摩の書状には「十死に一生をえた」と書かれていた。
蜂屋六左衛門もその二十八日午後に五十八歳の生涯を終った。
事件後甲斐の資料がほとんど失われてしまった。
雅楽頭が兵部(姻戚関係にある)及び甲斐を支持する側だった。
雅楽頭の近臣が記した「直泰夜話」という書物に、「さる三月二十七日、上屋敷において、仙台の家臣原田甲斐殿、傍輩の伊達安芸宗重を討ちけるとき」と
甲斐だけに敬様を付していることを指摘している。
したがって山本周五郎氏が「樅ノ木」で重要なすじにしたてた雅楽頭と甲斐との緊張関係は実在しない。つまり甲斐がまず雅楽頭の家来の手で斬られたのを、
甲斐自らが自分の乱心刃傷にしたてかえたという。「樅ノ木」の構想は事実として到底認めることが出来ない。
新五左衛門は、甲斐の四男五郎兵衛の養父である。
甲斐、五十三歳。その法名は剣樹宗光・・・・・・とつけられた。
しかし、罪人であるために戒名は過去帳に載せられず、碑も立てる人がいなかった。のち、甲斐ゆかりの女性で仙台藩士 北氏の妻となった人を甲斐と合葬したという。
その女性の法名は霊松院円牕光大姉である。
両源院は伊達家の宿坊であったが、その西南の片隅に明治の中頃まで大きな樅ノ木があり、原田甲斐の墓のしるしの樅ノ木と伝えられていたという。
家老の者に諸事申し合わせ、家中の仕置きを申し付けよ。もし差し支えることが起きたさいは、伊達遠江守と立花左近将監に相談せよ。
伊達六十万石の安泰の報は直ちに品川の綱宗と国元仙台に注進された。
四月三日、兵部の身柄は芝三田の下屋敷に送られ十五日松平土佐守の家来180人ほどに守られ江戸をたち五月六日土佐高知城下に着き十二月からは高知の北西郊外の屋敷に移された。
かつて三万石の大名だった兵部はは、いま扶持米500俵を給され七人の家来と配所の暮らしを送ることになった。それから八年後の延宝七年(1679)五十九歳で亡くなった。
兵部の子、東市正は小笠原遠江守忠雄に預けられ、間もなく豊前の小倉に送られ300俵の扶持米と六人の家来を許された。この時23歳、かれは五十四歳」でこの地で死んでいる。
渡辺金兵衛は、三月二十七日申次衆の内意によって江戸の仙台屋敷の親類牧野権兵衛と南部宗寿に預けられた。
今村善太夫は志賀右衛門ら谷地配分の検使とともに、四月一日伊達遠江守の麻布屋敷に移され(甲斐の義系津田玄蕃)(親類剣持新五衛門)及び谷地検使の親類は二日にまた、
金兵衛の親類吉田甚兵衛ら三人は三日にそれぞれ浜屋敷にひきこもりを老中から命じられた。
十四日、玄蕃、新五左衛門甚兵衛らは仙台に下し逼塞。
八月二十七日、渡辺金兵衛は伊達宮内少輔に預けて伊予吉田に移し岩籠に入るはずになっていたが断食を続け九月二十六日江戸で餓死した。
今村善太夫とその同役の目付け横山弥次右衛門とは伊達遠江守に預けて伊予宇和島に移すという処分が伝達された。22年後元禄六年(1693)、ゆるされて仙台に帰った。
また、谷地配分の検使、志賀右衛門と浜田半兵衛(市部近衛)は家禄を没収して仙台に送られることになった。
甲斐刃傷の三月二十七日、幕府申次衆と兵部、隠岐両後見は、仙台の大条監物(おおえだ)、片倉小十郎、茂庭主水、冨塚内蔵丞に書き送って、
甲斐の子息四人をそれぞれ親類に預けるように命じた。
監物らは実行しようとしたが、甲斐の嫡子、帯刀(たてわき)ら四人は船岡にひきこもって出ようとしなかった。
四月五日、原田家の親類すじにあたる茂庭主水は四人に誓紙を送って船岡から退去を要求し、
その処理が帯刀たちのこれからの首尾のよいことを願ってのものであることを伝えた。
七日、処刑、帯刀ら四人ともに切腹である。 帯刀は二十五歳、仲次郎は二十三歳、喜平次二十二歳、五郎兵衛は二十一歳であった。
帯刀の子、采女(うねめ)五歳、伊織一歳も殺された。
甲斐の母、茂庭氏慶月院は、伊達千代松に、甲斐の妻、津田氏は伊達上野に、帯刀の妻茂庭氏は兄の茂庭主水に、
仲次郎の妻と娘は古内主膳にそれぞれ預けられた。
仲次郎の養父:飯坂出雲は逼塞、喜平次の養父:平渡清太夫、五郎兵衛の養父劍持新五左衛門は、閉門を申し付けられた。
言うまでもなく知行は没収である。
帯刀ら四人の遺体は仙台北山の満勝寺に葬られたいとの願いは、満勝寺が伊達家の始祖朝宗の菩提寺であるため、許されず、
それは新寺小路の林光院の一穴にうずめられたという。
甲斐の母慶月隠は下を噛んで自殺を図ったが、歯がないために果たせず、七月二十九日伊達千代松邸で餓死した。74歳であった。
伊達家の始祖朝宗以来の譜代の臣であり、また宿老家として一族ともに栄えた原田家であったが、ここに滅亡した。
老中審問のの場となった酒井邸での狼藉は、江戸城中での狼藉に準ずるものであるが、これをいち早く甲斐悪逆、
安芸忠臣の形でまとめ、しかも伊達家に咎めをかけないようにという、
境雅楽頭の意図が河内守や五太夫のものいい現されているもおとみてよかろう。
のちに雅楽頭が失脚してその死後酒井家が百日の閉門を命じられた時、伊達綱村は100門の野砲を毎日一門ずつ酒井邸に贈って一日も閉門をさせなかったという。
つまり、武器を運ぶためには閉門中に開門できる定めがあったという。
延宝三年(1675)十七歳の伊達綱基は九月十九日江戸をたち二十七日三千四百八十四人のともを従えて仙台城に入った。
初めての入国である。
綱村19歳、仙姫13歳であった。