ブログ記事私の先祖は日本のサムライ/支倉常長一行の子孫
それは、私のことでは無く、スペイン南部のアンダルシア地方のコリア・デル・リオという川岸の町で無敵艦隊や商船隊の玄関口と言われる地に残留した日本人の事です。
今ではマスコミ等で有名になりましたが、仙台藩・伊達政宗から遣わされた支倉常長を大使とする日本人使節の一部が残留しその末裔が Japon(ハポン:日本姓)を名乗ってこの地に暮らしているのです。
民間レベルでの交流も現在はあり、皇太子も訪問していますね。
今更ですが、支倉常長のHPの記事として記載しました。 支倉常長については、こちらをクリックしてください。
今回はスペインに息づく日本性ハポンについて追及していきたいとおもいます。
TVなどでも放映されていたり、本も数々出版されているのでご存じの方も多いと思われます。
スペインに残った日本人の名前まで突き止められればと思います。
ここでハッキリ区別しておきたいのは、1960年代に入ってからのことで、同じスペインの南部の大西洋に面したカディスと言う港町には日本人を父親に持つ子供がかなりいるらしい。当時、大手水産会社(現:マルハニチロ)の大洋漁業の現地駐在員や乗組員がこのカディスの町を結婚しているものもいるが、
多くは私生児(バスタルドbastardo/あまりいい言葉ではない)として、差別の対象になってしまう。
後に基地はアフリカ西海岸に移り10数年経つと日本船は完全に撤退した。
しかし、これから記するのは、こんな話ではありません。
歴史ロマン溢れる話なのです。
メキシコ、アカプルコ
サン・ファン・バウティスタ号は、1614年1月25日、太平洋を渡り無事ノビスパニア(メキシコ)のアカプルコに到着した。
月浦を出てから、三ヶ月がたっていた。 シピオーネ、アマティの記述によると、停泊中の船からは祝砲が轟、土地の人々も鐘や
太鼓を打ち鳴らして、歓迎した・・・・というか、これはソテロ神父聞いた話をアマティがそのまま書いたものである。
彼が着いた一月末のアカプルコは常夏であった。
月の浦を出帆したサン・ファン・バウティスタ号にはスペイン人の乗組員40人と140人の日本人が乗り組んでいた。
「その日本人」の多くは交易商人で、大半がアカプルコ止まりだった。 それからすぐ鎖国が始まり、彼らが日本に帰った形跡はない。
1967年頃著者はメキシコに滞在したことがあったそうだ。 アカプルコに再訪した折に日系人に話を聞いた。
この地のインディオの中に「タナカ」「コンドウ」という苗字があるというのだ。
また、道端でインディオのおばさんが売っている野採にゴボウを見かけ、これは何というものか訪ねてみると、「ゴボウ」と 答えたのには驚いたという。
コリア.デル.リオ
広報室長のマヌエル.ルイス.ハポンさんと著者の会話を抜粋して記載します。
ハポンという姓の由来
スペイン語の「ハポン」という単語には“日本”以外の意味はあり得ない。
発音が近い“ハボン”という言葉はありますがこれは石鹸のことです。ポルトガル人が日本に持ち込んでシャボンとなっています。
ハポン姓の数は約800人ほどいます。 通常スペイン人は姓を二つ持っています。
第一姓は父親、第二姓は母方の父親の苗字がつきます。
名前もカトリック教徒なら二つあるから全部で四つです。
私のフルネームは、マヌエル.ヘスース.ルイス.ハポン。
マヌエルは生まれた時に親が命名した名で、それから一ヶ月後に教会で洗礼を受けた時に神父が“ヘスース”と付けてくれました。しかし、このセカンドネームには男女の区別が無いから男性の友人にマリアという名がついている者もいます。神の子には性の区別は無いのです。
つまり私が日本人に繋がるのは、母の父親の系統ですね。 その父親もその父親もずっと先まで日本(ハポン)です。
そう400年近くまで遡ることになります。
「ということは、マヌエルさんあなたの母方の祖母の場合は日本(ハポン)姓が消えてしまうことに」なりませんか?」
「そうなんです。800人ほどいるハポンの他にもすでに消えてしまったケースも少なくないです。」
「日本(ハポン)姓の由来については、私たちは1600年代に日本からやって来たハセク一行の一部がこの地に残留し その子孫の姓になったものだと考えています。
我々の先祖の日本人がこの地に住み着いた当初は、南側の町はずれの、今のセルバンテス通りが終わる辺りに ひと塊になって居を構えていたようです。
その後二代目辺りから徐々に中心地に集まって来たのは、教会や市場など日常生活に便利なだけでなくこの町の人間たちと同化したことを示しています。 そして近年は住民の中でも日本(ハポン)姓は上層部に属する人間たちが多くなったから、町役場を起点に町の中心地に住むようになったのです。
二人の郷土史研究家
①ビルヒニオ.カルバハル.ハポン
ハポンという苗字の由来
「画家のグレコの例を思い出してみるといい。スペインにはその人間の特徴をニックネームにする習慣があった。
それが通称となって定着したってわけだ」
東洋の未知の国“日本(ハポン)”からはるばる来た男たちにニックネームは付けやすかったということだろう。
スペイン人の名字はまさにビルヒニオのいう「特徴」の最たるものでやがて定着していったことになる。
これがグレコの場合「ギリシャ人」の意味であるから国名や国籍がこれにあたり、日本を意味するハポンが苗字になったことに相当する。
いずれにせよ、スペイン中どこを探してもハポンという地名は存在しない。
つまりそれは日本という意味以外にあり得ないことになる。
なかには、お互い第一姓が日本(ハポン)同士で結婚している場合もあった。
彼らの子供たちの姓はハポン.ハポンである。 このケースはその当時で10組いた。
彼らは一様に髪が黒く顔の彫が浅いという共通点が見られる。
もっともアンダルシア地方は北アフリカから渡ってきたモーロ人の血を引いている人が多いので金髪は少ないが不思議なことに モーロ系に共通した毛深い人が日本(ハポン)姓の人には見当たらないのだ。
②ビクトル.バレンシア.ハポン
当時セビリア大学の学生でその後アンダルシア州政府農業省に勤務している。
そもそも「日本(ハポン)姓のルーツは支倉使節のサムライたちで」である。と公表したのも若い学生の彼だったのである。
「私の父親姓はバレンシアですが、母の父親が日本(ハポン)です。
自分たちの先祖が日本のサムライであるという話を言い出したのは母の父親です。もっとも私の母も自分の親たちや親戚から、日本のサムライが私たちの先祖らしいと聞かされていたので、 私が教会の過去帳を調べ始めたのです。
それで日本姓の記述に出会ったのですが、それを記事にしてコリア町役場の「アソファ」という雑誌に載せたのです。」
サンタ・マリア・エストゥレーヤ教会に保存されている洗礼台帳に17世紀後半になると日本(ハポン)姓が現れる。
洗礼台帳ナンバー4(1665~1687)は、所々虫に食われていたが、次のようにハポン姓が記されていた。
<1667年11月1日、コリア町において、私当町の司祭フランシスコ.デ.オルガは、ドン.マルティン.ハポンとその妻 マダレナ.デ.カストロの娘カタリーナにたいし、ファンアルパレスを教父として洗礼を授けた。
すべての町民が宗教土の血縁になったことを通告するとともに誓ってここに署名する。この記録に出てくる最初の日本(ハポン)である。>
1667年は支倉が帰国していった50年後のことになる。
この地に残った日本のサムライたちは、まだ教会に出入り出来なかったために半世紀も経ってから、 子孫が洗礼を受けられるようになったのである。
従ってカタリーナは残留した随員の孫か曾孫にあたり。 彼女の父ドン.マルティン.ハポンは随員の息子か孫ということになる。
さらにカタリーナが洗礼を受けた6年後、別の夫婦の間に生まれた男の洗礼記録が同じ台帳に記されていた。
<1673年10月11日水曜日、コリア町で長く恩恵を授け、慈悲深きペドロ.カサノ.パロミノ司祭の許しを得てアルフォンソ.ラサロ.ティノコ.イ.マヨルガは、アンドレ.ハポンとその妻レオニア.デ.ケペドの嫡子ミゲールに洗礼を授ける。
当人ミゲールは、先日九月二十九日に誕生。・・・・・
しかし、残念なことに1605年から1664年に至る台帳ナンバー2と3が紛失してしまったのか?? どうしても見当たらない。
「この間に残留した日本人にとって第一代目の子供たちが生まれている可能性があるだけになおさら残念です」
だが失われた洗礼台帳より以前の、1553年から1604年に至る台帳ナンバー、ゼロとナンバー、1は現存していて、これには私も一度だけ目を通したが日本姓は見当たらなかった。
このことについてビストルはこう教えてくれた。
ハセクラたちがスペインに来る以前はハポン姓はなかったことになります。見当たらない台帳の行方ですが、1755年のポルトガル大地震の際、この辺りも大きな災害を受けているので、その時に失われたのかも知れません。 墓石に至っては壊滅だったそうです。
コリア町役場には徴兵名簿が保管されていた。 名簿の1647年の欄は大分虫に喰われている箇所もあるが、Barto lome Japon de 36 anos (バルトロメ.ハポン.36歳)という記載は判別できた。だが、これではバルトロメ.ハポンは1611年か12年の生まれになり支倉たちが日本を経つ1年か2年前のことになる。
ところが隣にいたビルヒニオが自信ありげに反論した「徴兵記録の場合は、官位を上げてもらうために自分の年齢を実際より大きく申告するのはごく当たり前のことだったんだよ。
実際に私の叔父だってスペイン内戦時には兵役に就いたとき、年を四つも水増しして申告したそうだ。」
棒給を多く受け取るためにサバを読んだというわけである。
コリア町役場のすぐ裏手には、町役場の通りと並行に走る小道がある。 道の両側の真っ白い家並み間を抜けるとサン・ファン・バウティスタ(洗礼者のヨハネ)の丘に至る。その丘の頂上には白い台座の上に十字架がありすぐ隣には、これも真っ白い「エルミータ」がある。
エルミータとは教会のようにおおっぴらにカトリック教徒が出入りするところではなく異端者がひっそりと祈りを捧げる 小さな礼拝堂のことである。「ここに残った日本人たちは、この礼拝堂エルミータで朝晩の祈りをささげていたのさ。 丘の麓のあそこに見える白いサンタ、マリア、デ、ラ、エストレア教会にはまだ入れなかったんだよ。 教会に入れるようになったのは三代目辺りからだね」
電話帳
マドリットの国営電話会社にある、全国の電話帳の中から日本(ハポン)姓を探すが第一姓である父親の苗字で引くようになっていて残念ながら母方の第二姓はアルファベット順に整理されていなかった。
各都市、町ごとに拾い上げるとマドリッドに一軒、バルセロナに一軒、セビリアに50軒、残りはすべてコリア.デル.リオと 隣のブエプラ.デル.リオに集中している。
現地に残った侍は?「サン・ファン・バウティスタ号」が石巻の「月浦」を船出したのは日本人140人とスペイン人40人の 合計180人であった。
執着のアカプルコで全員下船
確かこの鼻紙は博物館に保管しているはずです。 日本人の半数程が陸路でメヒコ(メキシコ市)に行く。その中からソテロ神父.日本を引き上げてきたスペイン人とイタリア人神父ら5人と26人の日本人の合わせて31人がキューバ経由で大西洋を渡ってスペインのコリア.デル.リオに上陸し、セビリア.マドリッド.バルセロナを経てローマに上がっていくことになる。
記録では
コリアを流れるグァダルキビル川の河口の町、サン.ルーカス.デ.バラメダに到着した時の資料がある。
彼らが一週間滞在した、地元のメディナ.シドニア公爵家に記録が残っていた。
この時31人が宿泊している。
その後、コリアで一週間滞在し一行は馬上と馬車に分かれてセビリアに入った。以後、カテドラルの向いのアルカーサル宮殿に28人が一ヶ月間滞在していたことが記録されている。
ソテロとヘスース神父は地元の人なので、彼ら二人とあと誰か一人が宮殿には宿泊しなかったとみられる。
その後一行はコルドバを経てラ.マンチャの平原を越えトレド経由でマドリッド入りするが、この時点では一部の人間しか名前は特定出来ない。
パレードの記録
マドリッドに8カ月間とローマに来るまでの道中ずっと同行し、式典にも参加していたローマの歴史学者シピオーネ.アマティによる記録から日本人関係をピックアップすると。
日本の使節は、・・・・まず、羽織袴の正装に大小日本の刀を差した7人が一列縦隊で現れ、ローマの貴族二人が左右についていた。
この七人の侍達とは、シモン・①佐藤内藏丞・トメ・②丹野久次・トマス・③神尾弥治右衛門・ルカス・④山口勘十郎・ジョアン・⑤佐藤太郎左衛門・⑥原田勘右衛門・ガブリエル・⑦山崎勘助の面々である。
その後ろから身分の高い侍が四人やって来た。
トマス・①瀧野嘉兵衛とペトロ・②伊丹宗己・フランシスコ・③野間半兵衛・パウロ・カミルロ・④小寺外記である。
その後からは、日本から一行に同行していた。グレゴリオ・マティアスが従っていたが彼らはヴェネチア出身なので、イタリア風の美服を着用していた。
次に①茂兵衛・②九蔵・③藤九郎・④助一郎の四人が槍や薙刀を捧げ持って更新してくると、いよいよ白馬にまたがった支倉六右衛門常長がやってきた。
以上の記述からローマでのパレードに参加した日本人は11人の侍と4人の小姓と支倉常長の計16人となる。
仙台藩でパレードに登場しているのは、支倉常長以外には佐藤内蔵丞と丹野久次の二人だけである。
今泉令史、西九助、田中太郎右衛門、内藤半十郎ら四人の名は、アマティの記録には出てこない。
記録漏れも考えられるが,洗礼を受けていなかったためパレードに参加出来なかったとも考えられる。
ここまで判明するのは、日本人26人のうち、パレードに参加したのは、先の16人に※モンターニョを加えた計17人だったということだ。
※モンターニョ ●一行と別にノビスパニア(メキシコ)から加わり、パレードに参加していた。
名前から「山」が付く苗字と思われる。
彼は支倉たちがマドリッドを離れてから一ヶ月後の7月15日に死亡している。 ローマ教皇パウロ5世謁見の様子。 パウロ5世に伊達政宗の親書を捧げるソテロと、脇に控える 常長。 (アマーティ「使節記」の挿絵) アマーティ「伊達政宗遣欧使節記」=仙台市博物館所蔵
イタリア人のシピオーネ・アマーティ著の「伊達政宗遣欧使節記」が最も詳しい記録とみなされている帰国名簿には12名「貞山公治家記録」の中に12人の帰国者名簿がある。
支倉を筆頭に今泉令史、松本忠作、西九助、田中太郎右衛門、内藤半十郎のほか、苗字は不明だが、 九右衛門、内蔵丞、主殿、吉内、久次、金蔵である。
松本忠作についてはヨーロッパに行かずに、一行とメキシコで分かれ先に日本に帰って来たことが判明している。
つまりヨーロッパ組から帰国したのは11人となる。
ローマに上がった26人の日本人のうち名前が特定できたのは24名となる。
まだ2名が特定できない。
フランスのサン・トロペに寄港して地元貴族の館に二日間滞在した際、下僕たちがこまめに料理を運んだりする 光景が館の未亡人の日記に描かれている。 さらに重要な資料が京都大学に保存されている。 支倉常長が帰途、ルソンのマニラから息子の勘三郎宛てに送った書状がそれである。
それには、「御あしがる(足軽)三人しゅ(三人衆)はじめ、内之ものども、いづれもそくさい(息災)ニて参候」とあり、 この「足軽三人衆」は文録の役で支倉とともに朝鮮半島で戦った吉内、九次、金蔵の三人のことのようだ。
この三人は帰路支倉に同行しているから、コリアに残った人間ではない。
内之ものども=身内の者。 つまり支倉の下男に違いない。 すれば前記した下僕は彼らのことであり帰国したことがわかる。
未帰還者は誰か??渡欧した26人から帰国者名簿11人と支倉の下男2人を合わせて差し引くと13人が残る。この13人が日本に帰らなかった可能性がある。
①瀧野嘉兵衛・②小寺外記・③野間半兵衛・④神尾弥治右衛門・⑤山口勘十郎・⑥佐藤太郎佐衛門・⑦原田勘右衛門・⑧山口勘助・ ⑨伊丹宗己らの他、身分の低い⑩茂兵衛・⑪九蔵・⑫藤九郎・⑬助一郎となる。
しかし、スペイン側の「乗船記録」つまり帰国していった日本人の人数を見ると、第一陣が13人第二陣がソテロの他5人と記録がある。
ところがメキシコの大西洋側のベラフルスの港サン・ファン・デ・ウルアに着いた時の記録では、第二陣は変わりはないものの、 第一陣で到着したのは10人とされており、スペイン側の記録と3人誤差が生じている。
メキシコの資料が正しいのであればスペインに残ったのは9人になる。 何故なのか? それは、スペイン側の乗船記録はセビリア市庁に提出された帰国予定者数の記載であった。 つまり実際に乗船した人数では無かった。
現在、スペイン側の研究者や郷土史家の多くが支持しているのは九人説である。
日本人の第二陣が帰国してから5年後に雇用者との間に起きたトラブルの裁判記録に瀧野の名が残っている。
セビリアのインディアス歴史資料館に現存し自らも支倉使節のサムライだと証言している。 瀧野は仙台藩士では無い、山城の国(京)の武士で支倉の護衛隊長を務めアカプルコで刃傷沙汰を起こしている。
モンターニョとともに幕府から支倉を監視するために密かに送りこまれた可能性がある。瀧野はセビリアから北へ140キロ行った、サフラという町の貴族の屋敷の警備に就いていたようだ。
スペインに残った理由
日本ではキリスト教の禁止から教徒への迫害、処刑がへとエスカレートしていったことで彼らには日本はすでに 生きていける国ではなくなっていた。
遠い母国からの情報変化が伝えられると、それは帰国の道が閉ざされたのも当然だったこんな事情もある。 当地に残った日本の若者が表情豊かで情熱的なこの国の女性の虜になったとしても不思議ではない。
私だったら、それ以上に厳しく命をかけた航海などしたくはないですね。
自分は20代後半から40代半ばまで旅行会社に勤務していた。 どこの国が好きか?と業界の仲間に聞くと誰もがスペインと答える。 自分はイタリアには行ったがスペインはまだ未訪の国だ。いずれ行ってみたい国のNo1でもある。
添乗業務でイタリアの行ったことがあるがローマの街並みは基本的に500年程前から大きく変わっていないだろう。
フランスにも行ったが、歴史の深さはパリよりもずっと深かったように思える。 こんな現代人が訪れても大きなカルチャーショックを受けたのに、江戸時代にヨーロッパの国を訪問すれば、 大きな驚きであっただろうと思う。
旅行会社時代はよくどこの国が一番いいですか? などと聞かれたが比べることは出来ない。
リゾート地とヨーロッパは比較できない。
私事ですが
たまたま自分は宮城県の出身であることで伊達家の記事や支倉常長の記事を書くようになり、スペイン、セビリア大学の学生さんから メールをいただいたことがあった。
彼は支倉常長の死について研究しているという。
宮城には、支倉の墓が3箇所ある。 そしてその没年度もすべて違う。 セビリアの学生が支倉常長の研究をしていると聞いた時は嬉しかった。
私の持っている写真を送ってあげたことがありました。
ちょっと脱線してしまいましたね。彼らがコリアに残ったのは、支倉の指示ではないか? という説もあります。
「支倉が彼らに、コリアに残って情報収集をつづけよ。」と命じた可能性もあります。
つまり支倉はまだイスパニアとの関係樹立を諦めていなかったのであり随員を全員引き揚げさせるわけにはいかなかったのだ。
そう考えれば、確かにコリア.デル.リオに日本人が集中した理由も見えてくる。今でこそ飛行機でひとっ飛びだが、この時代の船旅は命がけであったことは話すまでもない。
3艘に1艘は沈没していたといわれる。
ハポン姓がいつまでもスペインに残ることを願ってやまない。
支倉の一生は養子に始まり、波乱万丈の人生であったがこうして語り継がれ、一人のサムライとして海を越え、知られるようになったことは一人の日本人として嬉しいかぎりである。
しかし、まだまだ、県民でも知らない人は多くいる。
もう少し歴史に興味を持っていただければ、自分たちがどんなところに住んでいるのか、理解出来てくるのかもしれない。
参考文献 支倉常長遣欧使節 もう一つの遺産 著者:太田尚樹
昨年書いた記事ですが、遣欧使節の大使に選ばれた理由は意外なものでした。
昔、私が想像していた選ばれるべき人物像は、藩に重要な家臣は出さないはず、中堅で忠誠心のある人物であろうと・・・。 支倉常長の由名と大使抜擢の理
「ボルゲーゼ宮の支倉常長像(高田力蔵模写) 「支倉常長像」国宝。フィリッポ・フランシスコの洗礼
常長のローマ入市式の晴れ姿を描いた作品=仙台市博物館所蔵
名を受けた常長の敬虔な姿を描く=仙台市博物館所蔵
サン・ファン・バウティスタ号=慶長使節船ミュージアム